キリスト教界の声明文集


1.死刑に関する中央委員会の声明
 世界の多くの国々で死刑の行使が増加していることを憂慮 し、
 神にかたどって創造されたすべての人間は生来の尊厳性と無限の価値を有しており、人命を奪うことは神の意思に反し ていることを承認し、
 人命を奪う制度は犯罪者の新生を妨げ、新約聖書に示され ているキリストの愛に反することを承認し、
  死刑は取り返しがつかず、それ故に他のすべての形の刑罰 と性質が異なることを承認し、国際的な人権の基準によって、 死刑廃止のすべての措置が「生命への権利」の享受における進歩であると考えられていることに注目し、
  死刑はしばしば貧しい人々、少数者、社会の中の抑圧され たグループ、権力に対する政治的な反対者に差別的に用いられる刑罰であることを憂慮し、
 世界教会協議会が、多くの場合に、国家によって死刑判決 を受けた人々の生命を守るために弁護してきたことを想起 し、
 キリスト教会が、時々、死刑の適用に対して沈黙したり、 見過ごしたり、聖書的・神学的に正当化したりして罪を犯してきたこと、そして今日もなおそれを続けている場合があることを告白し、
 一九七一年の中央委員会が「生命の神聖に対する信念の重要な表現として死刑廃止への努力を促進すること」を勧告し たことを再確認し、
 一九九〇年三月、スイスのジュネーヴに集った世界教会協議会の中央委員会は
 1 死刑に対する無条件の反対を宣言する。
 2 各国政府に対して「死刑の廃止をめざす、市民的および政治的権利に関する国際規約の第二選択議定書」 に署名し、批准する方向にできる限り早く動くことを要請する。
 3 諸教会に対して、できるところではどこででも他宗教の人々や非政府組織と協力して、次のことを行なうよう求める。
(a)死刑がまだ許されている国々では死刑廃止運動を擁護すること。
(b)死刑が現在禁止されている国々では、その復活の動きに反対すること。
(c)全世界で死刑が廃止されることを求める国際的努力を支持すること。
(d)各教会自身のメンバーおよび他の教会のメンバーが死刑廃止のために努力するのを助けるために、神学的・聖書的な資料を開発し、多くの死刑存置論者によって提供された聖書的・神学的な根拠に反論すること。
(e)これらの努力の中で、洞察力と連帯と物質的・法的な支援などの蓄積を分かち合うことによって、互いに励まし合い、支え合うこと。

 1990年3月     世界教会協議会(WCC)

2.死刑制度の廃止を訴える声明


 日本基督教団は、第二十二回教団総会(1982年11月16日〜18日)において「日本基督教団は、日本国家による死刑執行の中止を求め、死刑制度の廃止を訴え、裁判所は死刑判決を下すことのないよう求める」との決議を致しました。
 わが国の検察統計年鑑矯正報によれば、1945年から1979年までの問に569名もの人々が死刑を執行されており、近年いくらかその数が減少しているとはいえ、過去10年問に平均して年約10名弱の人々が死刑の執行を受けている 事実に私たちは注目しなければなりません。
  私たちは犯罪が、被害者またその遺族、そして社会に与えた衝撃やその影響の重大さについて認識を欠いてはなりませんが、しかしそれ故に報復的に国家が加害者の生命を奪うことが許されるとは思いません。人の生命は神が与え給うものであって、人問がこれを左右することは許さるべきではないという宗教的な信念に基づいて、私たちは上述のような現状 にある死刑制度の廃止を強く訴えるものです。
  死刑制度維持の理由として、さらに、犯罪に対する国民一般の法的感覚の維持や、威嚇的効果があげられます。しかし、いずれも死刑という極刑維持の絶対的理由とはなり得ず、かえって生命軽視の風潮すら生み出しかねない状況も見られます。
 欧米諸国においては、米国の一部の州を除いて死刑の廃止は常識化しており、法的に、あるいは実際的に死刑を廃止した国は西ドイツ、イギリス、フランスを初めとしてすでに50ケ国にも及んでいます。しかもその多くは死刑存置の世論が高く、たとえぱ昨年死刑廃止にふみきったフランスにおいては62パーセントもの人が死刑存置を認めているにもかかわらず、人道的な見地から死刑制度の廃止を決断して、生命尊重の姿勢をあらわしていることに私たちは注目しなければなりません。
 すでに国連総会において1950年以来、くりかえして死刑制度廃止に関連した決議がなされており、世界教会協議会においても死刑廃止はもとより、政治的報復の意味の強い死刑執行の問題について調査・研究がなされようとしておりま す。日本基督教団も一九六六年に「社会活動基本方針」において「死刑廃止について研究し、必要な活動をする」と表明 し、その後も社会委員会はこの問題について訴えてきました。
 このような状況をふまえて、すでに死刑判決を受けている 人々の刑の執行を直ちに停止し、恒久的な死刑制度廃止を実 現すべく諸教会のみならず、広く社会に訴えます。                  
1982年12月3日
       日本基督教団総会議長 後宮俊夫

3.声明

 本日(1987年3月24日)の最高裁による東アジア反日武装戦線諸氏への、上告棄却の判決に接し、私達は心からの憤りと深い悲しみに包まれている。
 私たち日本基督教団は、1982年の総会において、死刑制度に反対する決議をした。「殺すな」という立場は、私達の信仰にかけた主張である。どれほどの過ちを犯した人問に対してであろうとも、死刑とは新たな殺人であり、ひとが己の罪を悔いて生き直す可能性を断つ業である。私達はこれを容認することはできない。一体、冷静な熟考の上で、ひとを死に値すると断定しうる人間とはどういう存在であるのか。現在の法体系の中に死刑制度がある以上やむを得ないなどとかわしうるほど軽い問題ではあるまい。心からの憤りはここに発する。
 確かに、束アジア反日武装戦線諸氏は、自らの主張を展開する上において多くの死傷者を出すという取り返しのつかない誤りを犯した。彼らの手段は到底私達の許容しうる範囲にはない。がしかし、彼らの、戦前のみならず戦後においても、アジア諸国の民衆からの富といのちの収奪の上に現在の日本の虚飾に満ちた繁栄があり、これを拒絶し、否定的に乗り越えることにおいてしか、ひとがひととして真に生きうる道はない、との主張の前にたじろぎを覚えないですむ日本人がひとりでもありうるだろうか。このたじろぎを、原審を始め、最高裁判決に至るまで私達は一切感じ取ることができなかった。深い悲しみはここに起因する。現在の裁判所に多くを期待しはしないが、それにしてもとの思いは強い。それは同時に、この程度の裁判所しか持ちえない私達全体の責任であるのだろう。
 私たち日本基督教団は、戦前・戦中、天皇制国家日本の侵略戦争政策に積極的に加担したという負の歴史を負っている し、戦後も自らに課せられた責を果たしえてこなかったことを深く反省している。その意味で、東アジア反日武装戦線諸氏が突き出した問題を、決して他人事と見過ごすことができずにきた。
 私たちは、あの「昭和」天皇をアジア諸国民衆の前に、自らの責任で裁きえなかった、裁きえようはずのなかった日本人が、東アジア反日武装戦線諸氏が、この負の歴史を総括しようとした過程で犯した誤りを裁けると思うことそれ自体が退廃であると考える。
 最後に、再度、私達は本日の最高裁の上告棄却判決を絶対に容認できないことを表明し、今後は、死刑執行を阻止すべく全力を傾注することを声明する。
1987年3月24日
   日本基督教団社会委員会委員長 桑原重夫


4.死刑を執行しないことを求める請願書

 私たちは人権を重んじ死刑に反対するキリスト者の立場から、法務大臣が死刑執行命令書に捺印しないことを強く要請します。
 世界の潮流は死刑廃止に向かっています。死刑を廃止もしくは停止した国は、最近三年問に20カ国増えて、現在では86カ国(世界のほぼ半数)に達しています。1989年に 国連総会で「死刑廃止国際条約」が採択され、昨年の7月に同条約が発効しました。日本でも国会議員のうち約170名 が死刑廃止に賛同しています。
 死刑は、この上もなく残虐な刑罰であり、最も基本的な人権である生存権を剥奪し、執行に係わる刑務官の良心の自由をも侵害します。また、いかなる裁判制度の下でも誤判の可能性を避けることはできませんから、死刑制度は無実の人を処刑する危険を伴っています(近年、日本において再審無罪が相ついでいます)。
 私たちは、生存権は神によって付与された不可侵のものであり、いかなる犯罪者も悔改めて新生する可能性があり、その可能性を奪って処刑することは人間には許されないことであると信じています。
 日本は「人権後進国」であり、国連で採択された人権条約の中で日本が批准していないものが多くあります。死刑廃止条約もその一つです。日本はこのような人権における後進性を克服して、人権確立のために貢献することこそが真の国際貢献であり、それが「国際社会において名誉ある地位を占めること」(憲法前文)であります。
 日本はまだ死刑制度を廃止していませんが、執行を行なわないことによって死刑囚の生存権を守ることは可能です。人権擁護の先頭に立つのが法務省の使命ですから、死刑廃止の方向に向かって、当局が先ず「執行しないこと」から出発することを私たちは切望し、特にその最高責任者である法務大臣が死刑執行命令書に捺印しないことを強く要請します。
 1992年1月23日
      日本カトリック正義と平和協議会会長 相馬信夫
      日本キリスト教協議会議長 竹内謙太郎

法務大臣田原隆殿



5.死刑廃止を求める決議

 人間は神の像として創造され、神によって生かされている存在であって、人命は不可侵の尊厳性をもっていることを信じるが故に、私たちは死刑に反対します。
 イエスは憎しみと復讐を越える立場を示され(マタイ五章 三八以下)、パウロは「復讐は神に任せよ」(ローマ一二章一九)と教えています。イエスは「あなたがたの中で罪のない者がこの女に石を投げつけるがよい」(ヨハネ八章七)と言いましたが、この言葉は人間が人間を処刑することはできないことを示しています。
 イエスは当時のユダヤ社会で排除されていた「地の民」と呼ばれる人々を排除することなく、彼等と食事を共にしまし た。このことは私たちに、死刑による排除を否定してすべての人と共に生きるべきことを教えています。
 イエスの死は万人のためであり、いかなる犯罪者にも悔改めて新たに生きる道を開きました。犯罪の背景には差別や家庭崩壊や社会への不適応などによる心の屈折がある場合が多 く、犯罪の責任を個人だけに帰することはできません。社会的な歪みを是正する共同の努力が必要です。
 憲法三六条には「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と規定されています。
 死刑執行は、それにあたる刑務官の「良心の自由」をも侵害します。
 人間の裁判は誤判を避けることができませんから、死刑は 無実の人を殺す危険を伴っています。
 死刑は国家権力への批判者・抵抗者を威嚇し弾圧する手段として用いられて「思想の自由」「言論の白由」を破壊する危険があります。
 死刑制度に犯罪抑止力がないことは今日では広く知られています。
 戦争と死刑は国家による合法的な殺人行為ですが、国家が殺人を悪であるとする立場に立ちながら、戦争と死刑においては殺人を合法的に認めるという誤りを私たちは許すことができません。私たちは「殺すな」という立場から戦争と死刑に強く反対します。
 私たちは死刑には反対ですが、被害者の遺族の悲しみを決 して軽視するものではなく、彼等の「隣人になり」(ルカ十章三六)「泣く者と共に泣く」(ローマ十二章一五)という、心を持たなければならないと思います。
 世界は死刑廃止に向かって大きく動いており、1989年の国連総会では「死刑廃止を目指す市民的および政治的権利に関する国際規約第二選択議定書」(通称「死刑廃止条約」) が賛成多数で可決されました。1992年6月現在、死刑を廃止した国は83カ国(世界の約44%)に達しています。 私たちは世界的な死刑廃止の動きを「人権を確立する神の働き」として受けとめ、死刑廃止を求めることをここに決議します。                         
1993年2月25日
     日本バプテスト連盟第四四回定期総会


6. 声明

 細川内閣の法務大臣となった三ヶ月章氏は就任の記者会見で「死刑反対の信念を持っている人は法相を引き受けるべきではない」と述べた。これは法律の改正を志向している者は国務大臣になるべきではないという暴論であり、政治家に思想・信条の自由を認めない立場であって、民主主義の基本を侵害する発言である。
 三ヶ月氏は更に「死刑執行を決断するのは人間として苦しいことで、任期中に案件がないことを望むが、もし振りかかってきたら、神に祈るような気持ちで決断するしかないだろう」と語った。
 死刑執行を命じることが「人間として苦しいこと」であり「案件がないことを望む」というのは正直な告白である。この発言は非人間的な制度であることを端的に示している。そのような非人間的制度であっても、それが法律で決まっているから、それに従うというのは「悪法も法なり」の立場である。非人間的な開くほうを改正するのが法務大臣の職責であるのに、その職責を果たさず、悪法であると感じながら、ただ現行法に盲従するというのでは、社会は改良されない。法務大臣は悪法を改めるために検討を開始するだけの人間性をもってほしい。制度は人間のためにあるのであり、人間が制度のためにあるのではないのである(新約聖書マルコ福音書2章27節参照)。

       1993年8月20日
            死刑廃止キリスト者連絡会


7. 21世紀に向けて死刑制度廃止を求めるキリスト者共同要請書

 内閣総理大臣 小渕恵三殿  法務大臣 中村正三郎殿  外務大臣 高村正彦殿
 衆議院議長 伊藤宗一郎殿  参議院議長 斎藤十郎殿


 私たちキリスト者は、超越的な神から与えられた尊厳な生を、誕生から死まで・すべて神に委ねて生きています。
 このような立場からするならば、いかなる理由があるにせよ、国家が人間の命を奪う死刑制度を許容することは、自らの信仰を根底から否定することになります。
 死刑制度に凶悪犯罪の抑止効果がないことは、死刑を廃止した国で凶悪犯罪が増加していないことによって明らかです。
 国会答弁で政府は、死刑は正義の維持のために必要であると主張しましたが、私たちは人を殺すという根本的な不正義(人権破壊)によって正義が維持されるとは到底考えることができません。
 犯罪被害者遺族の応報感情については、当時者でない者が軽々に論ずべきではありませんが、被害者遺族への救済措置の充実を通して、慰めと励ましの努力をすること以外に、解決の道はないと思い
ます。
 世論調査により死刑制度存置派が多数であるからという理由で、国家がこの制度の存置を続けているならぱ、「国家とは何か」と問わないわけにはゆきません。諸条件を勘案して、理性で世論をリードする姿勢を示してこそ、国家は法に甚づく存在であると言えるのではないでしょうか。イギリスもフランスも、世論の80%以上が死刑存置である中で、政府が理性に基づいて世論をリードして死刑制度を廃止したのです。なお、日本において1994年の世論調査で「将来的廃止」を含めれぱ「廃止」が「存置」を上回ったことは世論の動向として注目すべきことです。また、少数者の人権には特別な配慮が必要であり、単純に多数意見だけで決めることは危険です。
 死刑の執行に携わる拘置所の矯正職員(刑務官)は、矯正の対象である人を処刑しなけれぱならないのであり、それは耐え難い矛盾です。そもそも、人を殺すことを職務命令として命じられる職業が存在することは、「意に反する苦役からの自由」「良心の自由」を基本的人権として保障している憲法(18条・19条)に違反します。
 来年、1999年12月は、国連総会で「死刑廃止条約」が採択されてから満10年であり、そして20世紀の終りの時です。その時までに日本が死刑制度を廃止して、いかなる人をも排除せず人と人が共に生きることができる新しい時代を迎え、日本が国際社会において名誉ある地位を占めることができるように、行政と立法の責任者が尽力されることを衷心から訴え、強く要請いたします。

   1998年9月23日     日本キリスト教団社会委員会    日本キリスト教協議会
                日本カトリック正義と平和協議会  死刑廃止キリスト者連絡会
                日本バプテスト連盟

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